| 大島紬の由来 (土から生まれた着物) | ||
文献参考: 嘉納大信 作詞、三界 稔 作曲 | ||
奄美の新民謡に歌われているように、かつて名瀬の町は 本場大島紬の中心地でありました。池野幸吉の「名瀬大正外史」 には、伊津部いふのあたりは新開地で地方から流出した人たちがつむぎ工場にあつまり、名瀬の人々の生活は多かれ少なかれつむぎの製造販売で成り立っていた様子が描かれています。 | ||
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太平洋戦争終了後ようやく本場大島紬が復活したころ、筆者の記憶をたどっても新川のほとりには10軒ちかい車輪梅(テーチ木)染め工場があり、赤いドロドロした廃液が川に流れ落ちていました。 車輪梅の煮出液で絹糸を染め、安勝山の田んぼの泥で媒染して、帰りに新川の水で泥の汚れを洗い落としてきた様子が、この新民謡から想像することができます。 | |
| 本場大島紬の泥染めは奄美に自生する車輪梅の原木をチップ状に細断し、煮だした染液の中のタンニン色素と自然の泥土に含まれる金属類(鉄分等)とを絹繊維上に反応させて染着させます。 この染色法は絹糸を車輪梅の常温液で4~5分押さえもみしながら染液を50~60回更新して染色します。 染色途中絹糸を乾燥させ、続いて泥田で3~4回振りつけ、もみこみ染色を繰り返すとタンニン鉄によって黒色に着色されます。 泥染めはこのように伝統的な手法で行われますが、精巧・緻密な絣糸の染色は長年の経験と高度な熟練が必要です。 その結果、泥染めは... | ||
| 等の独特の心地よい風合をもつ生地 | ||
| 大島紬が確かな記録として現れるのは享保5年(1720年)、大島、喜界島、徳之島、沖永良部四島への紬着用禁止令であるといわれます。 | ||
次いで、1850年(嘉永3年)~1855年(安政2年)奄美に滞在した 薩摩藩士名越左源太の「南島雑話」の中に衣服のこと、養蚕のこと、芭蕉のことという3章があり、絵入りで細かく記載されています。 | ||
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| とあります。大島紬といえば泥染め、泥染めといえば大島紬であるというくらい泥染めは本場大島紬の代表的な染色です。 | ||